1月17日。もう頑張れないと気づく、少し手前

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1月17日。もう頑張れないと気づく、少し手前

😴 1月17日は、気力が先に尽きる

1月17日は、考える前に、身体のほうが先に止まる日だ。
昨日までは、まだ思考が動いていた。
考えすぎて疲れてはいたけれど、
頭の中では、何かを整理しようとしていた。

でも今日は違う。
考えようとしても、言葉が出てこない。
答えが見つからないというより、
答えを探す元気そのものが残っていない。

こういう疲れは、分かりにくい。
眠いわけでもない。
体調が悪いわけでもない。
ただ、何かを選ぶ力が、ごっそり抜けている。

Netflixを開いても、
おすすめ一覧を眺めるだけで、少し疲れる。
どれが観たいか分からない。
というより、
「観たい」という感情が、今日はどこにもない。

1月17日の疲労は、
頑張りすぎた反動というより、
積み重なったものが、ようやく表に出てきた感じに近い。

年が明けてから、
ちゃんと生活を戻そうとしてきた。
仕事も始めた。
人とも会った。
それなりに、無理もしてきた。

その結果として、
今日は「もう無理です」と言葉にする前に、
身体や感覚のほうが、先にブレーキを踏んでいる。

1月17日は、
頑張れなくなった日じゃない。
頑張れないことに、
ようやく気づき始めた日だ。

ここで自分を責めると、
疲労はさらに重くなる。
でも、無理に立て直そうとしても、
今日はたぶん、うまくいかない。

だからまずは、
「今日は選べない」
「今日は動けない」
その事実を、そのまま置いておく。

1月17日は、
回復の前でも、休息の途中でもない。
ただ、疲労が表に出てきただけの日だ。

🛋 何も選べない夜が、いちばん疲れている

本当に疲れているとき、人は何も選べなくなる。
やりたいことが分からない、というより、
選択肢を前にした瞬間に、
もう一段、疲れてしまう。

1月17日の夜は、まさにそれだ。
Netflixを開いて、
いつもなら迷いながらも何かを再生できるのに、
今日はその「迷う」という工程すら、しんどい。

サムネイルを一つ見るたびに、
ほんの少しだけ、気力が削られていく。
これは面白そうだろうか。
今の自分に合うだろうか。
その判断自体が、もう負担になっている。

疲労が深くなると、
感情より先に、選択能力が落ちる。
楽しいかどうか。
好きかどうか。
そういう基準を持ち出す前に、
「決める」という行為が重たくなる。

僕は以前、この状態を怠慢だと思っていた。
だらしない。
意志が弱い。
そうやって自分を評価して、
さらに疲れを重ねていた。

でも今は、はっきり分かる。
何も選べない夜は、
その日一番、消耗している瞬間だ。

頑張れないのではなく、
もう十分、頑張ってきた。
考えられないのではなく、
考えすぎてきた。

1月17日の「選べなさ」は、
失敗でも、後退でもない。
ただ、エネルギーが底をつきかけているという、
とても正直なサインだ。

だから今日は、
「選べない自分」を直そうとしなくていい。
気合で突破しようとしなくていい。
選べないなら、
選ばなくていい時間を用意すればいい。

1月17日の夜は、
そのくらいの扱いで、ちょうどいい。

🎬 疲れているとき、勝手に流れてくれる存在

1月17日の夜に必要なのは、
「よし、これを観よう」と決める体力じゃない。
むしろ、決めなくても、
いつの間にか流れてくれている存在だ。

『リラックマとカオルさん』は、
まさにそういう位置にある作品だと思う。
感動させようともしないし、
元気づけようともしてこない。

物語は静かで、起伏も小さい。
大きな事件は起きない。
何かを乗り越える展開も、
分かりやすいカタルシスもない。

でも、疲れている夜には、
その「何も起きなさ」が助けになる。
集中しなくていい。
画面を見続けなくていい。
途中で意識が途切れても、
置いていかれる感じがしない。

この作品は、
観る側に頑張らせない。
理解させようともしない。
「ちゃんと受け取ってほしい」という圧が、
ほとんど存在しない。

1月17日の疲労は、
感情が鈍くなっている状態だ。
悲しいわけでも、
落ち込んでいるわけでもない。
ただ、反応する力が残っていない。

『リラックマとカオルさん』は、
その鈍さを問題にしない。
無理に何かを感じさせようとせず、
「今はそのままでいい」と、
画面の温度だけで伝えてくる。

気づいたら、
部屋の中に音がある。
画面の向こうで、
誰かの日常が続いている。
それだけで、
一人きりじゃない感じが残る。

疲れている夜に、
作品に求めるものは、
意味やメッセージじゃない。
ただ、勝手に流れてくれていること。
1月17日は、それで十分だ。

🎬 今日、この疲労にいちばん近い一本

1月17日に観る一本は、
「今日はこれだ」と選び抜くような作品じゃない。
むしろ、選ばなかった結果として、
そこに残っているようなものがいい。

『リラックマとカオルさん』は、
疲れている自分が、
何も決められなかった末に、
自然とたどり着く場所に近い。

この作品を「おすすめ」と言うのは、
少し違う気もしている。
良いから観てほしい、というより、
「観なくてもいいし、流れていてもいい」
そのくらいの距離感だ。

疲労が強い日は、
作品から何かを受け取ろうとすると、
それだけで消耗する。
意味を探す。
気持ちを動かす。
その作業が、今日は重たい。

この作品は、
観る側に何も要求しない。
理解も、集中も、
感情の起伏も必要ない。

ただ、日常が続いている。
誰かが生活している。
その様子が、
一定の速度と音量で流れている。

1月17日の疲労は、
「何もしたくない」と言うほど、
はっきりしていない。
でも、「何かをしたい」とも、
とても言えない。

その中間にいる自分にとって、
この作品はちょうどいい。
観てもいいし、
観なくてもいい。
途中で止めても、
罪悪感が残らない。

今日の一本は、
心に残る必要がない。
感想がなくてもいい。
「観た」と言えなくてもいい。

1月17日は、
疲労に名前をつける日じゃない。
ただ、その疲れに、
いちばん負担の少ない形で、
時間を一緒に過ごせる一本があればいい。

🛋 疲れている自分を、ちゃんと雑に扱う

疲れているときほど、
人は自分を丁寧に扱おうとしてしまう。
休まなきゃ。
整えなきゃ。
ちゃんとケアしなきゃ。

でも1月17日の疲労は、
そこまで手厚く扱うと、
逆にしんどくなる種類のものだ。

何を食べるか考えるのも面倒。
何を観るか決めるのも面倒。
「自分のために何かをする」という行為自体が、
もう一仕事になっている。

だから今日は、
自分を雑に扱っていい。
いい加減にする、という意味じゃない。
期待しない、という意味だ。

ちゃんと回復させようとしない。
前向きな状態に戻そうとしない。
「明日のために」も考えない。

ただ、最低限の快適さだけを残す。
寒くない。
うるさくない。
一人でいすぎない。

疲れている自分に、
何かを与えようとしなくていい。
代わりに、
これ以上奪わないようにする。

『リラックマとカオルさん』が、
この日に合うのは、
その「雑さ」を許してくれるからだと思う。

真剣に観なくていい。
途中で寝てもいい。
内容を覚えていなくてもいい。

疲れている自分を、
「ちゃんと扱わなきゃいけない存在」にしない。
今日は、それがいちばんの配慮だ。

1月17日は、
自分を雑に扱っていい日だ。
そのくらいの距離感が、
この疲労にはちょうどいい。

🌙 何も回復しないまま、今日は終えていい

1月17日は、何も回復しないまま終わる日だ。
元気にならなくていい。
気持ちが軽くならなくていい。
「少し楽になった気がする」すら、なくていい。

疲労というのは、
回復の兆しが見えるときよりも、
「今日はもう何も変わらないな」と感じた瞬間のほうが、
正直に顔を出す。

何かをしても、
あまり意味がなさそうな感じ。
早く寝ても、
明日が良くなる保証はない感じ。

それでも一日は終わる。
何も整っていなくても、
何も片づいていなくても、
夜はちゃんとやってくる。

僕は以前、
こういう日を「無駄にした」と思っていた。
休めなかった。
回復できなかった。
だから今日は失敗だ、と。

でも今は、少し違う。
回復しない日があるから、
本当に休む必要がある日が分かる。
何も変わらない一日があるから、
変わる日が、ちゃんと区別できる。

1月17日は、
何も回復しないまま終えていい日だ。
疲れたまま布団に入って、
そのまま意識が落ちてもいい。

今日の疲労は、
今日の中で解決しなくていい。
明日、少し残っていてもいい。
それを「失敗」と呼ばなくていい。

何も回復しなかった。
でも、それで一日が無効になるわけじゃない。
ただ、そういう日だっただけだ。

1月17日は、
疲労を連れたまま、
静かに終えていい。

── 黒川 煌

📖 本記事の視点について(スタンスと信頼性)

本記事は、映像批評家・Netflix研究家として活動してきた黒川 煌が、
映画やドラマを「元気になるための処方箋」ではなく、
疲労が表に出てきた日の居場所として捉えてきた経験をもとに構成しています。

とくに本記事では、「疲れているときは休めばいい」「回復すればいい」といった、
一般的な正解から距離を取り、
回復しないまま一日が終わる感覚そのものを、否定せずに言葉にしています。

扱っている感情や状態は、評価や診断を目的としたものではありません。
あくまで、その日その時間に感じた疲労や脱力を、
一人の視点として記録したものです。

本記事は、前向きさや結論を提示することを目的としていません。
「今日は何も整わなかった」という一日にも、
そのまま置いておける余白があることを示すための文章です。

📚 補足・免責事項

※本記事は、配信作品を題材とした個人の映像批評・エッセイです。
※作品の感じ方や解釈には個人差があります。本記事の内容が、すべての読者に当てはまるものではありません。

※記載している配信作品・配信状況は、執筆時点の情報をもとにしています。
配信の有無や内容は、地域・時期により変更される場合があります。

※本記事は、医療・心理的な助言や診断を目的としたものではありません。
強い疲労感や不調が長く続く場合は、専門機関への相談をご検討ください。

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