ラヴ上等|優しくない夜に、それでも向き合ってしまった人たち
🌘 その夜、僕は「癒し」じゃなくて“何か”を探していた
その夜、僕はソファに深く沈み込みながら、
Netflixのトップ画面を、ただ指でなぞっていた。
仕事は終わっていた。
誰かと喧嘩したわけでも、
嬉しい知らせがあったわけでもない。
ただ、何も起きなかった一日が、
静かに終わろうとしていただけだ。
癒されたいわけじゃない。
前向きになりたいわけでもない。
でも、このまま何も感じずに眠るのは、少しだけ怖かった。
そんなとき、画面の端に引っかかったのが、
『ラヴ上等』という、強すぎる言葉だった。
タイトルは挑発みたいだった。
「愛」なんて言葉を真正面から掲げる作品ほど、
たいてい僕は警戒してしまう。
それでも、なぜか再生ボタンを押してしまった。
こういう夜に選ぶ作品って、
だいたい自分の“弱っている部分”を正確に刺してくる。
『ラヴ上等』は、最初からそれを隠そうとしなかった。
🌫 最初に来るのは「恋リアっぽくない」違和感
最初の数分で、
この番組が自分の想像していた恋リアと違うことに気づく。
恋愛リアリティにありがちな、
軽やかな空気や、恋の高揚を支えるBGMの助けが少ない。
感情を“分かりやすい形”に整えてくれるナレーションも薄い。
むしろ残るのは、
会話の途切れ方や、沈黙の置かれ方、
気まずさが消えずに滞留する感じだ。
視聴者に向けて、
「ここで笑っていい」「ここで泣いていい」
そんな合図は、ほとんど出されない。
それでいて、
“見せるべきところだけ見せる”という手加減も、あまりしない。
だから、居心地が悪い。
でも、その居心地の悪さこそが、
『ラヴ上等』の入口なんだと思う。
⏳ 観ている間、心と身体に起きていたこと
『ラヴ上等』を観ているあいだ、
僕の感情はずっと宙ぶらりんだった。
誰かに共感していると思った次の瞬間、
その人物の言動に引いてしまう。
応援したい気持ちと、距離を取りたい気持ちが、同時に存在し続ける。
そして、この番組は不思議と身体に来る。
息が浅くなる瞬間がある。
肩が少しこわばる瞬間がある。
スマホに逃げたくなるのに、目だけは画面から離れない瞬間がある。
いちばんしんどいのは、
共感してしまった瞬間に気づくことだ。
強がってしまう癖。
本音を言う前に、相手を試してしまう態度。
謝りたいのに、謝れない沈黙。
「大丈夫」と言いながら、実は全然大丈夫じゃない目。
それらが画面越しに現れたとき、
胸の奥で、何かが小さく音を立てる。
「苦手」と思ったはずなのに止められない。
それは、この番組が面白いからじゃない。
自分の“見たくない癖”を、見せてくるからだ。
彼らを見ているはずなのに、
いつの間にか、
自分がどう恋をしてきたかを、問い返されている気がした。
僕らはふだん、
恋愛を語るときに「正しさ」を先に置きすぎる。
でも恋は、たぶんそんなに整っていない。
『ラヴ上等』は、整っていないままの感情を、そのままこちらに渡してくる。
🧩 考察① 「優しくない」の正体は、残酷さではなく“設計”
『ラヴ上等』がしんどく感じる理由は、
出演者が荒れているからでも、過激だからでもない。
逃げる選択肢が、構造的に奪われているからだ。
同じ空間で生活する。
気まずくなっても顔を合わせる。
関係を切るための“便利なボタン”がない。
現代恋愛の安全装置——距離を取る、曖昧に終わらせる、フェードアウトする——が機能しない。
だから、向き合うしかない。
言葉にするしかない。
黙るなら黙るで、黙ったままの空気と一緒に過ごすしかない。
これは優しくない。
でも、残酷なのとは違う。
向き合いすぎてしまう設計が、視聴者の心を揺らしている。
🥊 考察② 彼らは「危険」じゃない。恋を“戦い方”で学んできただけ
参加者たちは、ときに乱暴で、強引で、危うく見える。
今の価値観からすると、「怖い」と感じる人がいても不思議じゃない。
でも彼らは、恋愛を「安全なもの」として学んでこなかっただけだ。
強さを示さなければ舐められる。
先に引いたほうが負けになる。
覚悟を見せなければ信用されない。
謝ることは“弱さ”として扱われてしまう。
好きと言うことは、相手に主導権を渡すことになる。
そういう場所で身につけた作法を、そのまま恋に持ち込む。
だからぶつかる。
だからこじれる。
でも同時に、嘘が少ない。
「純粋」という言葉を、僕は久しぶりに別の意味で受け取った。
優しいとか正しいとかじゃない。
感情をごまかしていない、という意味の純度だ。
ここで僕が強く感じたのは、
「純粋」という言葉の別の意味だった。
優しいという意味じゃない。
正しいという意味でもない。
感情をごまかしていないという意味だ。
🧭 考察③ MCは盛り上げ役じゃない。感情の翻訳者だ
この番組が成立している最大の理由は、スタジオ側の存在にある。
永野は、視聴者が感じる拒否感を、そのまま言葉にする。
「無理」「怖い」「分からない」
この正直さが、観る側を救っている。
恋リアが苦手な人の目線を、番組の中に置いてくれる。
MEGUMIは、荒れた感情を現代語に翻訳する。
断罪に流れそうな空気を、別の角度から見せ直してくれる。
「それでも分かる」と橋をかける役だ。
そしてAK-69は、行動原理の通訳者だ。
あの文化圏の“作法”を、外側の人間にも届く言葉にする。
彼がいなければ、多くの行動は「乱暴」で切り捨てられて終わっていたと思う。
MCは盛り上げ役じゃない。
理解の補助線だ。
『ラヴ上等』の視聴体験は、彼らの翻訳込みで完成している。
🌃 なぜ今、Netflixで『ラヴ上等』なのか
傷つかない距離感。
正しさを優先する関係。
撤退しやすい恋愛。
僕らはいつの間にか、恋の中でも“損しない”ことに慣れすぎた。
それは合理的だ。賢い。
でも、合理性だけで生きていると、
感情が薄くなる夜がある。
『ラヴ上等』は、その薄さを埋める。
ただし、癒しで埋めるんじゃない。
生々しさで埋める。
Netflixという、私的で、評価されない夜の場所だからこそ、
この生々しさは成立する。
劇場や地上波だったら、視聴者は“途中で離脱”するか、“正義で裁く”方向に寄りやすい。
でもNetflixは違う。
再生と停止の自由がある。
ひとりで観られる。
他人の目がない。
だから、自分の心が揺れるのを、そのまま見届けられる。
🩹 観ているときに起きる「二つの痛み」
この番組が残す痛みは、二種類ある。
一つ目は、他人の痛み。
誰かが傷つくのを、目の前で見せられる痛みだ。
でも、もっと厄介なのは二つ目。
自分の痛みだ。
彼らの言動を「乱暴」と切り捨てようとした瞬間、
自分がどれだけ“安全な言葉”に隠れてきたかが見えてしまう。
「ちゃんと話そう」「距離を置こう」「今は無理」
それらは正しい。
でも時々、その正しさが、
本音から逃げるための上着になっていたと気づかされる。
『ラヴ上等』は、視聴者に問いを返す。
あなたは、傷つかないために、どれだけの感情を切り捨ててきた?
あなたは、正しいために、どれだけの熱を手放してきた?
そういう問いだ。
🌤 観終わったあと、翌日に残った感覚
観終わっても、スッキリはしない。
答えも、教訓も、与えられない。
でも翌日、ふとした瞬間に、この番組が戻ってくる。
通勤の駅のホームで、
コンビニの明かりの下で、
何気ないLINEの文面を打つ指先で。
「いま送らないほうがいい」と思う自分と、
「いま送らないと一生送れない」と思う自分が、同時にいる。
その葛藤を、久しぶりに思い出す。
この番組は、恋を教えてくれない。
でも、僕が逃げてきた感情の形だけは、確かに残していった。
恋は、正しいかどうかじゃない。
たぶん、あの夜に、どれだけ向き合ったかだ。
『ラヴ上等』は、その不器用な事実を、容赦なく見せる。
🌙 観る前に知っておくと、夜が少し楽になる
この番組は、誰にでも向くわけじゃない。
だから、観る前にひとつだけ伝えておきたい。
もし今夜、あなたが
癒しが欲しい、
優しい言葉に包まれたい、
泣いてスッキリしたい、
そういう夜なら、別の作品を選んだほうがいい。
『ラヴ上等』が向くのは、
何も起きなかった一日に、何かが足りないと感じる夜だ。
心が鈍ってしまうのが怖い夜。
過去の自分が、少しだけ気になる夜。
正しいだけじゃ、生きていけない気がする夜。
「向いていない夜」がある、という前提だけでいい。
それを知って観ると、しんどさは“暴力”じゃなくなる。
ただの体験になる。
🌘 まとめ|それでも、この夜に観てよかった
『ラヴ上等』は、万人におすすめできる番組じゃない。
癒しを求めている夜には向かない。
それでも、僕はこの番組を観てよかったと思う。
なぜなら、ここには
「傷つかないための恋」じゃなく、
「それでも向き合ってしまう恋」があったからだ。
優しくはない。
でも、ごまかしもしない。
その不器用さが、
僕の夜の薄さを、少しだけ破ってくれた。
そしてたぶん、
この番組が流行っている理由もそこにある。
僕らはもう、正しさだけでは眠れない夜を、持ってしまった。
── 黒川 煌
📚 情報ソース・免責
本記事は、Netflix配信番組『ラヴ上等』を鑑賞した筆者の主観的体験と考察に基づいて執筆しています。
作品の評価や解釈は個人の感じ方によって異なります。
本記事は特定の見解や価値観を強制するものではなく、視聴体験を深めるための一つの視点として提示するものです。



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