ラヴ上等|永野・MEGUMI・AK-69がいるから、この番組は最後まで観られる

レビュー&考察

ラヴ上等|永野・MEGUMI・AK-69がいるから、この番組は最後まで観られる

🌘 まず結論:MCがいなければ、僕は途中で逃げていた

『ラヴ上等』の話をするとき、
参加者の言動や、恋の荒さばかりが注目されがちだ。

でも僕は、そこより先に言いたいことがある。

この番組を「観られる体験」にしているのは、スタジオだ。
永野、MEGUMI、AK-69。

彼らがいなければ、
この番組は「ただの過激な恋リア」になっていたと思う。

視聴者は怖がって、裁いて、離脱してしまう。
あるいは、正義の側に立ったまま、最後まで観てしまう。

でも『ラヴ上等』は、そうならない。
視聴者を一方の席に座らせない。

🗒️ 黒川コメント

恋リアの「面白さ」は、たいてい安全圏から生まれる。
でも『ラヴ上等』は安全圏を壊してくる。
その壊れた地面の上で、立てるようにしてくれるのがMCだった。

🌫 MCがやっているのは「盛り上げ」じゃない

恋愛リアリティのMCと聞くと、
盛り上げ役、ツッコミ役、
視聴者の代弁者——そんなイメージが先に立つ。

もちろんそれもある。
でも『ラヴ上等』に関しては、役割が少し違う。

彼らは、感情を実況しているんじゃない。
感情が破裂しないように、容器を作っている。

視聴者が抱く「怖い」「無理」「分からない」を、
どこにも置けずに溜め込んだら、
番組はただのストレスになる。

その行き場を作るのが、スタジオだ。

だから『ラヴ上等』は、
危ういのに、最後まで観られてしまう。

🧨 永野:拒否してくれる人がいるから、視聴者は救われる

永野の強さは、
「拒否」をちゃんと言葉にしてくれるところだと思う。

怖いものを怖いと言う。
無理なものを無理と言う。
分からないものを分からないと言う。

この当たり前が、視聴者には必要になる。

『ラヴ上等』は、視聴者の感情を試す番組だ。
「あなたはこれをどう受け取る?」と何度も問いかけてくる。

そのとき永野が、
視聴者の胸の内にある拒否を、先に外へ出してくれる。

拒否が外に出ると、
人はようやく“観察”に戻れる。

「怖い」と感じている自分を肯定できた瞬間、
視聴者は次の問いに進める。
「じゃあ、なぜ怖い?」と。

🗒️ 黒川コメント

永野が「無理」と言ってくれると、僕はほっとする。
それは番組を否定しているからじゃない。
自分の拒否反応を、ちゃんと許せるからだ。

恋リアって、
ときどき視聴者に「共感しろ」と強要してくる。
共感できない人は置いていかれる。

でも『ラヴ上等』は、
永野が“共感できない席”を確保してくれる。
ここが大きい。

🪞 MEGUMI:断罪の手前で、感情を翻訳してくれる

MEGUMIがしているのは、
「理解」と「免罪」の違いを守る作業だ。

視聴者が誰かを見て、
「最悪だ」「ありえない」と断罪したくなる瞬間。
その空気は、驚くほど速く立ち上がる。

その瞬間に彼女は、
別の角度を差し出す。

「そういう言い方しかできない日もある」
「その荒さの奥に、怖さがある」
「今は、言葉より先に感情が出ている」
そんな翻訳を置く。

ここが“ただの擁護”に見えないのは、
彼女が相手を美化しないからだと思う。

ダメなところはダメと言う。
でも、切り捨てずに残す。

その姿勢は、視聴者にも移る。

自分の中にもある乱暴さ。
自分の中にもある未熟さ。
それを「なかったこと」にせず、観る。

🗒️ 黒川コメント

MEGUMIの言葉は、
“裁く速度”を一拍だけ遅くしてくれる。
その一拍があるから、僕は「理解」に戻れる。

🧭 AK-69:文化の“作法”を通訳する、唯一の橋

AK-69の存在は、たぶんこの番組の核だ。

『ラヴ上等』が描いているのは、
恋愛そのものというより、
恋愛に持ち込まれてしまう「生き方の作法」だ。

強く出ないと舐められる。
弱さを見せると足元をすくわれる。
謝るのは負けに見える。
言葉より態度で示す。
そういう世界の“筋”。

それを恋愛に持ち込むと、
当然、ぶつかる。
当然、誤解される。

視聴者はここで二択になりがちだ。
「乱暴で危険だ」と切り捨てるか、
「熱くて男らしい」と持ち上げるか。

AK-69は、その二択を壊す。
「これは作法だ」と言語化して、観る角度を増やす。

つまり、理解の入口を増やしてくれる。

🗒️ 黒川コメント

僕は“文化の違い”という言葉を軽く使いたくない。
でもAK-69がいると、
その違いを「断絶」じゃなく「補助線」にできる気がする。

🧩 3人の役割を一言で言うなら「感情の安全装置」

永野は、拒否の席を作る。
MEGUMIは、断罪の速度を落とす。
AK-69は、作法を翻訳する。

この3つが揃うと、視聴者はどうなるか。

「怖い」と思っても観られる。
「無理」と思っても切り捨てずに済む。
「分からない」と思っても、考える余地が残る。

つまり、視聴者の感情が破裂しない。

恋リアを観ていて疲れるのは、
視聴者が「どこに立てばいいか分からなくなる」からだ。

『ラヴ上等』は、立つ場所を一つに決めない。
その代わり、MCが複数の足場を用意する。

だからこの番組は、しんどいのに観られてしまう。

🌃 なぜ今、こういうMCが必要になったのか

いまの僕らは、正しさに慣れすぎた。

SNSには、正義の言葉が溢れている。
違うものを裁く速度が速い。
“正しく言うこと”が、最適解になりやすい。

でも恋愛は、正しく言えない場面の連続だ。
言い方を間違える。
タイミングを外す。
怖くて黙る。
強がってしまう。

その不器用さを、僕らは日常では隠して生きている。
だからこそ、『ラヴ上等』の不器用さは刺さる。

ただし、刺さりすぎると痛い。
痛みが強すぎると、視聴者は離脱する。

そこで必要になるのが、MCの“緩衝材”だ。

🗒️ 黒川コメント

この番組が流行っているのは、
乱暴さが面白いからじゃない。
正しさだけでは触れられない感情が、ここにあるからだ。

🩹 観終わったあとに残るのは、参加者の顔じゃなく「自分の癖」

『ラヴ上等』を観終えて思い出すのは、
参加者の名場面よりも、自分の反応だったりする。

怖がった瞬間。
腹が立った瞬間。
共感してしまった瞬間。
そして、共感してしまった自分に気づいてしまった瞬間。

MCの言葉が残るのは、
その自分の反応を“置いておける場所”を作ってくれるからだ。

裁かなくていい。
無理に肯定しなくていい。
でも、見なかったことにもしない。

その曖昧さが、夜の終わりに必要になる。

🔗 あわせて読みたい|ラヴ上等をめぐる「夜」と「翌日」

スタジオの言葉が、
なぜあそこまで心に残ったのか。

その理由は、
番組を観ていた“夜”と、
観終わった“翌日”のあいだに、
確かに存在している。

夜に起きた息苦しさ。
翌日に残った違和感。
その二つを行き来してはじめて、
『ラヴ上等』という体験は、ひとつの形になる。

🌙 まとめ──MCは「見届けるための灯り」だった

永野は、拒否を許す。
MEGUMIは、断罪を遅らせる。
AK-69は、作法を翻訳する。

その結果、視聴者は一つの結論に縛られない。
怖いまま観ていい。
分からないまま考えていい。
揺れたまま眠っていい。

『ラヴ上等』は、優しくない。
でも、MCがいることで、
その優しくなさは“暴力”じゃなく、
体験になる。

夜の孤独に、灯りを足すように。
スタジオは、視聴者の心に小さな足場を作っていた。

── 黒川 煌

📚 情報ソース・免責

本記事は、Netflix配信番組『ラヴ上等』を鑑賞した筆者の主観的体験と考察に基づいて執筆しています。
作品の評価や解釈は個人の感じ方によって異なります。
本記事は特定の見解や価値観を強制するものではなく、視聴体験を深めるための一つの視点として提示するものです。

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