『イクサガミ』が「つまらない」と感じる人へ──それでも、この物語が選んだ道
まず、はっきり言っておきたい。
『イクサガミ』を観て、
「つまらない」「合わなかった」と感じた人は、
何ひとつ間違っていない。
それは、理解力の問題でも、
感性の問題でもない。
この物語が、
最初から「そう感じる人が出ること」を、
織り込んで作られているからだ。
全員に届くようには、
作られていない。
派手なカタルシスもない。
分かりやすい勝者もいない。
感情移入の導線も、意図的に削られている。
だから途中で、
「これは自分のための物語じゃない」と、
感じてしまう。
その感覚は、正しい。
第五弾では、
『イクサガミ』がなぜ賛否を生み、
なぜ「つまらない」という言葉を、
引き寄せてしまうのかを、
否定も擁護もせず、整理する。
これは、
作品を守るための記事ではない。
感じてしまった違和感を、
きちんと「言葉」にするための記事だ。
説明しない物語は、なぜ拒絶されやすいのか
『イクサガミ』が「つまらない」と言われる理由のひとつは、
とても単純だ。
説明しないから。
この作品は、
物語の入口で、
観る側の手を取らない。
誰が主人公なのか。
何を達成すれば終わりなのか。
どこに向かえば正解なのか。
そうした情報を、
ほとんど提示しないまま、
物語は始まる。
物語の地図を、
最初から渡さない。
これは、
娯楽作品として見たとき、
かなり不親切な設計だ。
多くのドラマは、
最初の数分で、
「どう見ればいいか」を教えてくれる。
誰に感情移入すればいいのか。
どんなゴールを目指しているのか。
それが分かれば、
観る側は安心して、
物語に身を預けられる。
だが『イクサガミ』は、
その安心を、
最初から与えない。
分からないまま、
進ませる。
この時点で、
多くの人が、
無意識に疲れてしまう。
理解しようとする。
追いつこうとする。
置いていかれないように、
画面を注視する。
だが説明がない以上、
努力は、
すぐに報われない。
結果、
「これは自分向けじゃない」
という判断が生まれる。
これは、
視聴者の問題ではない。
むしろ、
とても健全な反応だ。
分からないものを、
分からないと感じるのは、
正しい。
では、
なぜ『イクサガミ』は、
あえて説明を削ったのか。
理由はひとつ。
説明した瞬間、
この物語は、
別の作品になってしまうからだ。
動機を語れば、
理解できてしまう。
目的を示せば、
応援できてしまう。
だがこの物語が描きたいのは、
「理解した上で戦う人間」ではない。
理解できない状況でも、
選んでしまう人間だ。
だから説明しない。
これは、
作り手の傲慢ではない。
観る側に、
同じ不安を体験させるための選択だ。
説明されない不安は、
登場人物と、
観る側を、
同じ場所に立たせる。
だが当然、
この設計は、
全員に受け入れられない。
分からないまま進むことが、
ストレスになる人もいる。
娯楽に、
そこまでの緊張を、
求めていない人もいる。
それは、
完全に正しい。
『イクサガミ』は、
説明しないことで、
世界を狭めている。
その狭さが、
合わない人を、
確実に生む。
だから「つまらない」という感想は、
作品の失敗ではない。
作品が、
意図通りに機能した結果だ。
説明しない物語は、
拒絶される自由も、
同時に引き受けている。
感情移入できない設計は、なぜ意図的だったのか
『イクサガミ』を観て、
多くの人が口にする感想がある。
「誰にも感情移入できなかった」
これは、
娯楽作品としては、
かなり致命的な欠点に聞こえる。
普通、物語は、
観る側に「居場所」を用意する。
主人公に寄り添い、
その成功を願い、
失敗に心を痛める。
感情移入は、
物語への入口だ。
だが『イクサガミ』は、
その入口を、
意図的に狭くしている。
主人公の内面は語られない。
感情は抑えられ、
説明もない。
結果、
観る側は、
「この人は何を考えているのか」
分からないまま、
物語を追うことになる。
ここで、
距離が生まれる。
だが、この距離は、
失敗ではない。
むしろ、
作品の目的そのものだ。
寄り添わせないことで、
別の立場に立たせる。
『イクサガミ』が、
感情移入を拒むのは、
観る側を、
登場人物と同じ場所に立たせたいからではない。
逆だ。
一段、引いた場所に立たせたい。
誰かの成功を願うより、
誰かの選択を、
見てしまう側に。
その結果、
視聴者は、
応援する人間を失う。
代わりに、
判断する立場に置かれる。
「どう感じるか」より、
「どう見ているか」を問われる。
この設計は、
とても冷たい。
感情の逃げ場がない。
泣くタイミングも、
許されない。
だから、
疲れる。
楽しさよりも、
緊張が勝つ。
それを「つまらない」と感じるのは、
自然なことだ。
だが同時に、
ここで一線が引かれている。
『イクサガミ』は、
感情移入できる人だけに、
届く作品ではない。
感情移入できなくても、
「自分が、どこに立たされているか」に、
気づいてしまう人に、
届く作品だ。
この物語は、
味方を作らない。
主人公ですら、
完全な味方にはならない。
だから観る側は、
孤立する。
その孤立こそが、
この物語の体験だ。
感情移入できない、
という違和感は、
拒絶ではない。
物語が、
あなたを「別の場所」に連れて行った証だ。
『イクサガミ』は、
観る者を守らない。
だから、
合わない人がいて当然だ。
勝ち負けが分からない物語は、なぜ快感をくれないのか
『イクサガミ』を観て、
こう感じた人も多いはずだ。
「結局、誰が勝ったのか分からない」
戦っている。
人は倒れている。
だが、胸を打つような勝利の瞬間が、
ほとんど用意されていない。
勝ったはずなのに、
晴れない。
これは、
物語としての失敗だろうか。
いいや。
むしろこれは、
快感を与えないための設計だ。
多くのエンタメは、
勝ち負けを明確にする。
誰が勝者で、
誰が敗者か。
その線が引かれることで、
観る側は、
感情を整理できる。
勝利は、
感情を片付けてくれる。
だが『イクサガミ』は、
その片付けを、
意図的に拒む。
なぜなら、
この物語において重要なのは、
勝ったかどうかではないからだ。
重要なのは、
そこまで、何を失ったかだ。
仲間。
信念。
過去。
そして、
引き返せる可能性。
勝利の瞬間に、
カメラが寄らないのは、
それが「終わり」ではないからだ。
勝っても、
物語は終わらない。
この設計は、
視聴者にとって、
非常にストレスフルだ。
達成感がない。
ご褒美がない。
感情を吐き出す場所がない。
だから「つまらない」と感じる。
だが、
この不快感には、
明確な狙いがある。
『イクサガミ』は、
勝ち負けを曖昧にすることで、
ひとつの問いを、
浮かび上がらせる。
本当に勝ったと言える人間は、
存在したのか。
誰かを倒しても、
失ったものは戻らない。
生き残っても、
元の場所には戻れない。
勝利は、
救済ではない。
この価値観は、
爽快感を期待している人には、
どうしても合わない。
努力が報われる物語。
正しさが報われる物語。
そうした約束を、
『イクサガミ』は、
最初から結んでいない。
それでも、
なぜこの設計を選んだのか。
人生の多くの選択が、
「勝った気がしない結果」を
もたらすからだ。
選んだ。
前に進んだ。
だが、胸を張れるかと言えば、
そうでもない。
そんな瞬間を、
私たちは、
何度も経験している。
勝ち負けが曖昧な現実を、
そのまま描く。
快感がないのは、
未熟だからではない。
むしろ、
あまりにも現実に近いからだ。
『イクサガミ』は、
勝利で、
感情を終わらせない。
だから、
観る側も、
終われない。
この物語が与えないのは、
カタルシスだ。
だが、
問いだけは、
確実に残していく。
それでもNetflixが、この作品を作った理由
ここまで読んで、
こう思った人もいるかもしれない。
「じゃあ、なんでそんな“合わない人が出る作品”を作ったのか」
その疑問は、
もっともだ。
説明しない。
感情移入させない。
勝利の快感も与えない。
娯楽としての“分かりやすさ”を、
次々と手放している。
売れにくい条件は、
ほぼすべて揃っている。
それでもNetflixは、
『イクサガミ』を選んだ。
なぜか。
理由は、
この物語が、
テレビドラマの文法では成立しないからだ。
週1放送。
CM前の引き。
分かりやすい盛り上がり。
そうした構造の中では、
この作品は、
必ず“説明されてしまう”。
説明された瞬間、
この物語は、
別物になる。
Netflixという配信形式だけが、
この設計を、
そのまま受け止められた。
途中で離脱してもいい。
合わなければ、
閉じてもいい。
「最後まで観なくてもいい」
という自由があるからこそ、
最後まで観る人にだけ、
届くものがある。
Netflixは、
全員を満足させる必要がない。
数字は見る。
だが、
平均点を狙わない。
深く刺さる人が、
少数でもいればいい。
『イクサガミ』は、
まさにそのための作品だ。
合わない人がいる。
途中でやめる人もいる。
だが、
残った人には、
強烈な問いを残す。
それは、
「あなたは、どこで降りるのか」
という問いだ。
安全な場所に戻るのか。
分からないまま、
進むのか。
その選択を、
物語の外にまで、
持ち出してくる。
この作品は、
視聴体験そのものを、
テーマにしている。
だからNetflixは、
この作品を、
“万人向け”にしなかった。
むしろ、
割れることを前提に、
世に出した。
好きか、嫌いか。
合うか、合わないか。
その分断すら、
作品の一部として、
引き受ける覚悟で。
『イクサガミ』が、
Netflixでなければならなかった理由は、
ここにある。
この物語は、
全員に届くために作られたのではない。
だが、
届いてしまった人の中で、
長く残るために作られている。
まとめ|この物語は、あなたを選ばなかったかもしれない
ここまで読んできて、
それでもなお、
『イクサガミ』が好きになれない人もいるだろう。
それは、失敗ではない。
この物語は、
最初から、
全員を選ぶつもりがなかった。
説明しない。
寄り添わない。
勝利で救わない。
それらはすべて、
偶然ではなく、
選ばれた設計だ。
届かない人がいることを、
あらかじめ引き受けた物語。
だから、
途中で離れた人も、
「つまらない」と感じた人も、
この作品にとっては、
想定内の存在だ。
そして同時に、
それは、
観る側を切り捨てたという意味でもない。
合わなかった、
という感想もまた、
作品が生んだ反応のひとつだからだ。
『イクサガミ』は、
理解されることよりも、
考え続けられることを選んだ。
すぐに忘れられる快感より、
後になって思い返してしまう違和感を。
終わったあとに、
残ってしまうものを、
信じた物語。
もしあなたが、
「合わなかった」と感じたなら、
それは、この物語が、
あなたに何も起こさなかったからではない。
むしろ、
何かが引っかかったからだ。
分からなかった。
乗れなかった。
疲れた。
その感情は、
作品との距離を、
正直に測った結果だ。
そして距離を測れた時点で、
あなたはもう、
この物語と関わっている。
『イクサガミ』は、
全員に愛されるための物語ではない。
だが、
届いてしまった人の中で、
長く残ることを、
選んだ物語だ。
選ばれなかった、
と感じる夜があってもいい。
それでも、
この物語を思い出してしまうなら、
それはもう、
無関係ではない。
合わなかった、という感想も含めて、
『イクサガミ』は、
観る者の人生の中に、
確かに一度、足を踏み入れた。
それだけで、
この物語は、
役目を果たしている。
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──物語が終わったあと、選択はどこに残るのか。
どこから読んでも構いません。
ただ、読み進めるほどに、『イクサガミ』は物語ではなく「問い」へと変わっていきます。
免責事項
本記事は、Netflix配信作品『イクサガミ』に関する視聴体験や評価、
および「つまらない」「合わない」と感じる理由について、
公開時点で確認できる情報と筆者個人の解釈・考察をもとに構成しています。
本記事内で取り上げている評価や感想、構造的な分析は、
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